【京都市西京区】ひっそりとあまり知られずに幹線道路沿いに佇む古墳 天皇の杜古墳って誰のだろう?

京都市内から五条通りを西へ抜け、幹線道路の国道9号線に沿って2025年6月6日に電動自転車を走らせていると、所々で新緑のまぶしい季節を感じるようになっていました。桂川を越えた辺りに、突然鬱蒼とした小さな森が現れます。素人目にも「前方後円墳の形状をしている古墳やなあ」と分かるほど整備された綺麗な古墳です。

天皇の杜

公園となっている入口の石柱には「天皇の杜古墳」となっていました。「こんなところに天皇の古墳って? 聞いたことないな」と思って入って見ることに。史跡天皇の杜古墳の案内看板によると、「京都市内でも極めて保存状態の良い全長83mの前方後円墳で、墳丘の形は前方部が広がらない柄鏡式(えかがみしき)で古墳時代でも4世紀代に属している。」のだそうですね。

天皇の杜

上京区にある「京都市考古資料館」の2Fにある常設展示に「天皇の杜古墳」の発掘調査当時の大きなパネル写真や出土品の一部などが展示されていました。発掘調査の報告書を見せていただくと、昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて行われた調査では、周囲をめぐる壕は形成されていないことが分かり、葺石と埴輪なども検出されました。

天皇の杜

 

周囲にめぐらされた幅2mのテラスからは376本と想定される円筒や朝顔形の埴輪も発見されました。この埴輪の特徴からやはり、は平安京造営(794年)の400年程前の古墳時代前期末葉に築造されたと考えるのが妥当となったようです。「天皇の杜」と呼ばれるのは、江戸時代に文徳天皇(850年に即位)の御陵であるとされてきたようで、時代を経て、調査の後に時代の相違となりましたが、呼び名だけが残ったということでした。

天皇の杜

では、その被葬者といえば、この時期に桂川右岸地域を統括し、樫原一帯を支配する権力者である有力豪族と推定されています。明確には記載されていないものの、紹介文では、「この時期には朝鮮半島からの渡来人により、土木技術や養蚕、須恵器生産などの進んだ文化がももたらせた。中でも秦氏は大きな役割を果たした。」とあります。

天皇の杜

京都市考古博物館での展示の様子

天皇の杜古墳は、向日市・長岡京市・大山崎町に点在する多数の古墳とともに、「乙訓古墳群」として国の史跡に指定されています。

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