【京都市】1230年続く歴史の宮城南宮で圧巻の150本のしだれ梅が華やかな饗宴

陰陽道に基づいて平安京造営の際、「四神相応の地」として平安京が造られました。方角を司る四神である北の玄武が北区の上賀茂神社、東の蒼龍が東山区の八坂神社、西の白虎は西京区の松尾大社となります。南の朱雀として創建された伏見区の城南宮は、古くより京の人たちから、引越や工事、家相の心配を除く「方除(ほうよけ)の大社」として仰がれてきました。

城南宮

四季折々の花や紅葉に彩られ、また清流や池を随所に配した城南宮の神苑は、「源氏物語」に描かれた80種あまりの草木が植栽され、「源氏物語花の庭」として親しまれています。2025年3月11日に梅の便りに誘われて、「しだれ梅と椿まつり」を訪れました。約150本のしだれ梅が植えられている「春の山」では、「探梅(たんばい)」、「観梅(かんばい)」、「惜梅(せきばい)」などの薄紅色や紅白の花たちが、春の訪れを告げるように見ごろを迎えていました。

城南宮

延暦13年(794年)の平安京遷都に際し、国土形成の根源神、国土の守護神といわれる国常立尊(くにのとこたちのみこと)と八千矛神(大国主命)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)とを合祀し、城南大神と崇めたことが城南宮の創建といわれます。城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。

城南宮

平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められ政治文化の中心となり、歌会や雅やかな宴や船遊びも行われ、王朝文化が花開きました。承久3年(1222年)、後鳥羽上皇は朝権を回復すべく城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募り、鎌倉幕府との間に承久の乱が起こりました。

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江戸時代には、霊元法皇や和宮親子(ちかこ)内親王の方除の祈祷を奉仕し、孝明天皇は正五九月にご祈祷を修し、この慣習は「正五九参り」として今に続いています。明治維新を決定づけた鳥羽伏見の戦いは、城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まり、錦の御旗が翻ったといいます。

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