【京都市西京区】桂駅周辺に新緑映える小さな神社群 西岡36人衆と革嶋一族とは?
阪急桂駅西口から大阪方面へ線路沿いを少し行った閑静な住宅街の中に小さな神社群があります。この地域は松尾大社氏子圏でもあり、「松尾七社之一」とされる大宮社、また神武天皇の父を合祀しているという三宮神社、そしてこの辺りの支配者だったとされる革嶋一族の氏神だった革嶋春日神社です。2024年5月11日に訪れて見ると、いずれも小さな境内ですが新緑に覆われて映えていました。
葛野郡のうち桂川以西(右岸)のこの桂地域を含む地域と長岡京市や向日市など旧乙訓郡のほぼ全域は、かつて平安時代から鎌倉時代にかけては、松尾社、天竜寺、東寺、石清水八幡といった寺社、藤原一族の近衛、鷹司など摂関家の所領が入り乱れる土地でした。中世には、その代官を務めていた革嶋氏や神足氏、中小路氏、鶏冠井氏、寺戸氏、能勢氏、志水氏、小野氏、竹田氏、野田氏など土豪たちが地域を支配するようになっていきます。
この地域は、今井用水の一ヵ郷として西岡と呼ばれ、土豪たちは、やがて室町幕府の御被官36人衆として、向日神社や青龍寺城(勝竜寺城)を合議の場として結びつきを強め、西岡一揆と呼ばれる惣国一揆を起こせるほどの独立した惣国として発展していきます。清和源氏佐竹氏が源流とされる革嶋家は、現在の西京区川島地域一帯を治める国人でした。
「勝龍寺城に対する無二の御覚悟を賞します。私が本意を遂げたなら、あなたへのご馳走の段、決して忘れません。御身内衆にもお伝えいただき、忠節に励んでいただきたい」(今度対当城、無二之御覚悟、不及是非候、於 達本意者、……。此等の趣、被仰聞、弥……、愛宕山地蔵権現御照覧候へ、不可 有相違候、恐々謹言、革嶋市介殿進之候 革嶋家文書)
これは、戦国時代、細川藤孝が室町幕府15代将軍の足利義昭から離れ、織田信長に組する際に、革嶋一宣、秀存、忠宣親子ら革嶋一族と交わした起請文です。織田信長が義昭を都から追放すると、それぞれの誇りから真っ二つに分かれて戦った土豪たちは、細川藤孝の配下に置かれたのち、藤孝が丹後に移封されると、同行したもの、土着の百姓衆として西岡の地に残ったもの、後には、革嶋氏のように本能寺の変で先発の斎藤利三軍の一番隊長として身を投じたものなどそれぞれの道を歩んだのでした。
36人衆の名は今も各地名や城跡として残されています。歴史ロマンあふれる西山山麓へぜひお越しください!