【京都市中京区】新撰組誕生のきっかけを作った清河八郎は、幕末動乱期随一の策士でアジテーターだった!

 新選組結成160周年となる2023年はそのゆかりの地、壬生界隈や京都島原などが注目をあび、聖地巡りなど多くの観光客が訪れています。幕末の動乱期、時代を動かしたのは時代の若者たちでした。今回はその一人、清河八郎という人に注目してみたいと思います。
 
清河八郎
 
 時は幕末、「太平の眠りをさます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず」といよいよアメリカが軍艦2台と商船 2 台を従えて浦賀に現れ、ペリー提督は、武力を誇示して鎖国中の日本に開国をせまってきます。開国、尊王攘夷、公武合体、佐幕派、討幕派といった様々なグループが生まれ、江戸も京の都も日本列島騒然の動乱が吹き荒れます。
 
清河八郎

京都市観光協会撮影掲載許可

 
 清河八郎は、出羽国田川郡清川村と言いますから、現在の山形県東田川郡庄内町に、庄内藩郷士であった齋藤豪寿の子として生を受けます。江戸に出て、吉田松陰などを輩出した安積塾や幕府直轄の「昌平坂学問所」などで学ぶ一方で、千葉周作を開祖とする北辰一刀流の玄武館で免許皆伝を許され、その後、清河塾を開設しました。安政7年(1860年)に起こった桜田門外の変を契機に、倒幕尊王攘夷に傾注し、清河塾には憂国の士が集まりだしたと言います。その中には、江戸城無血開城の勝海舟側の使者ともなった幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)もいました。
 
清河八郎

京都市観光協会撮影掲載許可

 
 3代将軍家光以来、京都に来ることさえなかった徳川将軍が幕府の権威失墜の中、14代家茂の代になって朝廷に皇女和宮の降下と引き換えに攘夷実行を約束するため、上洛をすることになります。しかし、229年続いた太平の世で、武芸や学問よりそろばんが大事といったような時代で、事務官僚化していた本来の親衛隊「旗本八万基」が役に立たない、治安不安定の京の都で将軍警護の兵がいないという事態になるわけです。
 
清河八郎
 
 清河の呼びかけに応じて、その時に集められたのが234名の「浪士隊」でした。文久3年(1863年)3月将軍警護の先発隊として、上洛を果たします。しかし、これは「倒幕尊王攘夷派」として浪士組をそっくりすげ替えようとする清河の策でした。清河が本当の意思を暴露した演説の場が、壬生坊城通の新徳禅寺でした。その時に、清河と袂を分かち、「幕府権力の維持」を目指して、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一、山南敬助らが立ち上げた集団が「壬生浪士組」、後に京都守護職会津藩松平容保御預として結成された「新選組」だったのです。
 
清河八郎
 
 京都市と京都市観光協会が主催する2023年の「京の夏の旅」は、9月30日(土)まで、新選組結成160年&世界遺産をテーマに、壬生寺や前川邸、新徳寺、仁和寺や上賀茂神社など市内9か所で、通常非公開の建築・仏像・庭園などの文化財が期間限定で特別公開されています。
 みなさん、熱中症対策を十分した上で、ぜひ足をお運びください!
 
HOTSUU

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