【京都市左京区】日本仏教はじまって以来の大法論の証人になった阿弥陀様のおられる寺院 大原勝林院
大原三千院門跡の山門を出て、さらに奥に進むと正面に「勝林院」があります。魚山大原寺と号する天台宗の寺院で、天台声明(しょうみょう)の根本道場です。入り口にある橋は「来迎橋」と言い、この橋より境内は極楽浄土とされています。2022年4月11日、桜満開の大原の里を散策した際に、せっかくなので奥まで足を延ばして訪ねてみました。
1186年(文治2)、 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、近年の研究では鎌倉幕府が成立したとされる年の翌年にあたります。この勝林院で、この頃台頭してきた浄土宗の法然上人とその弟子たち10数人と南都北嶺の僧侶ら(のちの天台座主顕真や証真、三論宗の明遍、法相宗の貞慶など)380人の間で、日本仏教はじまって以来の大法論が行われました。
「念仏を阿弥陀如来にのみ唱えることで、衆生(すべての人)が救われ極楽往生できる」とする法然上人の他力本願と「厳しい修行の末の悟りを開いた者のみ救われる」とする自力本願の教義について激しい論争が繰り広げられたと言います。その際、法然上人や顕真僧都が上がったとされる「八講壇(問答台)」も本尊前に残されています。
世にいう「大原問答」の際、光明を法然上人に放ち証拠に立ったと伝承される阿弥陀如来坐像がこの勝林院のご本尊です。仏師康尚の作で、その伝承から「証拠の阿弥陀」と言われています。一般的には阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩と勢至菩薩が立つのですが、勝林院の阿弥陀様には、何故か不動明王と毘沙門天が立たれています。
阿弥陀如来坐像の中指から五色の綱が繋げられていて、本堂の下まで伸びていました。奥には織田信長の妹・お市の方と浅井長政との子・江姫の位牌もあります。
声明は、お経に独特の節をつけて合唱する仏教音楽です。遣唐使として唐に渡った比叡山の僧・円仁(後に三代目天台座主ともなる高僧)がこの声明を日本に持ちかえり、大原の里で盛んに修行が行われるようになったことに由来しています。この音律がやがて、浄瑠璃、民謡、歌舞伎などに引き継がれていくことになります。