【京都市右京区】嵐山亀山地区から新緑に覆われた嵐峡を望む 千光寺大悲閣の絶景が見事!

 見事な渓流と美しい緑を愛でながら、ゆったりとした屋形船で嵐山の四季を楽しみ、食事をしながら大堰川の船遊びができる。そんな嵐狭めぐりも一興ですね! さて、今回は2024年5月25日に大堰川の北岸にある嵐山公園亀山地区へ歩いて訪れ嵐狭を望んでみました。

嵐狭

 急な石段を登り切った頂上展望台から見事に新緑に包まれた嵐狭を見渡すことができました。まさに絶景です! 対岸に千光寺大悲閣が見えます。大悲閣千光寺は、江戸時代の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)が、大堰川を開削する工事で亡くなった人々をとむらうために、嵯峨の中院にあった千光寺を移転し建立させたもので、源信の作といわれる千手観音菩薩を本尊とし、境内にある客殿「大悲閣」は、大堰川の切り立った岩肌に建つ観音堂です。

嵐狭

 嵐山公園を渡月橋の方に進むと新緑に包まれて、その角倉了以の石像がありました。角倉了以という人は、代々医師の家系で名医を父に持っていました。生来、腕白で手に負えない子供だったことから、父の吉田宗桂(室町幕府の典医であるとともに、納銭方一衆であり、西陣織の帯専売組織の代官となる洛中帯座の座頭職も務める)も医師にすることをあきらめ、もう一つの家業であった土倉業(金融、質屋)を継がせることにしました。了以はその屋号として「角倉」を名乗ったのでした。

嵐狭

 嵐山を借景とした宝厳院の回遊式山水庭園 「獅子吼(ししく)の庭」を作庭したことで知られ、室町幕府の外交官でもあった天龍寺の策彦周良(さくげんしゅうりょう)禅師とともに、宗桂が「天龍寺船」を仕立て、明に留学で渡航します。その際に持ち帰った交易品を売りさばく事業を了以が請け負うという関係でした。この頃から角倉の貿易事業は始まっていたといいます。

嵐狭

 土木事業では、江戸時代になって、幕命により丹波と山城を結ぶ大堰川の疎通や京都では高瀬川を開削したことでその名を知られます。この結果、角倉家はこれら河川の通船支配権を獲得し、また搬出材木などによって豪商となり、多大の経済的利益も得たのでした。

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 角倉家は、日明貿易で築いた財を清水寺始め仏閣の再興に還元し、今の京都の風景や文化を構築するのに大きく寄与した人物ということができます。

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