【京都市中京区】現在の本能寺境内でも小川通蛸薬師にある石碑の場所でもない信長闘死の本当の場所はどこ!

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、2023年7月30日に「本能寺の変」の様子が放映され、さらには8月6日に「清須会議」が放映予定だそうです。さてその本能寺の変のあった場所ですが、現在の寺町御池にある本能寺は、変の後に天下人となった秀吉の京都大改造で、寺町通りに移転されたものですので、この場所で変が起きたわけではありません。

柳の水

 ではどこか? 実際の場所として観光ガイドさんなども中京区小川通蛸薬師元本能寺町の本能小学校前にある石碑の場所を案内されるようです。確かに変のあった1582年(天正10年)ごろの本能寺の寺域は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた東西約120メートル南北約120メートルという敷地を有していたようですので、この辺りもその端っこにかかっていただろうと思われます。

柳の水

 しかし、平成19年(2007年)の本能寺跡の発掘調査が行われたのは、西洞院三条下ルにある柳水町でした。現在、京の黒染屋「馬場染工業株式会社」の前にコンコンと流れる「柳の水」周辺となります。五代目柊屋新七こと馬場麻紀代表取締役にお聞きすると「4回にわたって行われた京都市埋蔵文化財研究所の調査は石碑のある本能小学校前ではなく、まさにこの向かいの民家の場所でした。立札等の設置がこの場所でかなわなかったので、公的施設の前に碑が建立されたんですよ」と言います。

柳の水

 さて、この柳の水がある場所は、平安時代末期には崇徳院の御所のあった処、室町時代に村田珠光が住まいし、本能寺の変があり、安土桃山時代には、柳の水を千利休が茶の湯に利用したとされています。さらには江戸時代の前期には、前田玄以が織田信雄から京都奉行に任ぜられ井戸の水辺を清め石の井筒を据えたとされています。織田信雄と言えば、清須会議で織田信孝と織田家の後継を争ったと言われてきました。

柳の水

 しかし、諸説ありますが、最近の研究では、信長の後継は嫡男の信忠がすでに継いでおり、信忠嫡男の三法師が後継となることは至極当然のことだったといいます。実際、信孝も信雄も清須会議には参加していません。そして、この「馬場染工業」は、大坂夏の陣の後、その信雄の屋敷があった場所でもあります。また、寛永期(1624年~)以降は肥後加藤家の京屋敷となり、清正の子忠弘が住したと言います。

柳の水

 午後二時までであれば、歴史に詳しいスタッフのひろみさんが案内してくださるそうですのでぜひ訪れてみてください!

2023/08/02 09:21 2023/08/02 18:52
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