【京都市右京区・中京区】大堰川や高瀬川を開拓した豪商・角倉了以の軌跡を辿って、嵐山・奥嵯峨を歩いてみました!
桂川の渡月橋より上流は、大堰川と呼ばれています。残雪残る大堰川に掛けられた渡月橋を渡りながら、2023年1月31日、かつての歴史ロマンに思いを馳せていました。角倉了以は、大堰川開削工事を53才の時・慶長11年に着手し、6ヵ月を費やして完成しました。開削工事は、相当の難工事だったと言います。工事を担当した村上水軍の末裔といわれる水夫や船頭、船大工たちが移り住んだエリアが角倉了以邸宅跡地のある旅館「花のいえ」の北側一帯の嵯峨角倉町だそうです。
背景には、了以と法華宗との繋がりがありました。文禄四年(1595)方広寺大仏殿を建てた豊臣秀吉が、千僧供養会を計画して各宗へ出仕を求めた際、不受不施の宗法を持つ法華宗(後の日蓮宗)では、宗法を守るべきか、宗法を破ってでも出仕するかで意見が二分することになりました。日禛は日奥らとともに、たとえ権力者の要求でも宗法を破るべきではないと主張したのです。
しかし、時の為政者の力は大きく、日禛は翌文禄5年に本国寺を退去し、小倉山の一角に隠棲しました。今の常寂光寺がこれにあたります。この時に土地を提供し、支援したのが法華宗の大檀那でもあった角倉了以でした。了以が保津川を開削したときに、日禛上人は、かつてのお礼の意味をも込めて、故郷備前国(岡山県)から、先述の水夫らの一段を呼び寄せ、了以の舟運事業を支援します。
室町幕府の外交は、当時一番のインテリだった五山の僧たちが務めていました。では、財務を管理をしていたのは誰かというと、室町幕府の財を預かり、五山の寺の蔵を管理し、土倉業を行っていた後の豪商たちでした。
角倉了以という人は、代々医師の家系で名医を父に持っていました。生来、腕白で手に負えない子供だったことから、父の吉田宗桂(室町幕府の典医であるとともに、納税方一衆という現在の財務大臣でもあり、西陣帯屋職の座頭でもありました。)も医師にすることをあきらめ、もう一つの家業であった土倉業(金融、質屋)を継がせることにしました。了以はその屋号として「角倉」を名乗ったのでした。
宗桂が嵐山を借景とした宝厳院の回遊式山水庭園 「獅子吼(ししく)の庭」を作り、室町幕府の外交官でもあった天龍寺の策彦周良(さくげんしゅうりょう)禅師とともに、「天龍寺船」を仕立て、明に留学で渡航した際に持ち帰った交易品を売りさばく事業を了以が請け負うという関係でした。この頃から角倉の貿易事業は始まっていたのです。正式に角倉船を仕立て、安南(ベトナム)やカンボジア、ルソン(フィリピン)シャム(タイ)などアジア諸国朱印船貿易に乗り出したのは文禄元年で、豊臣秀吉の許可により始められました。
角倉家は、日明貿易で築いた財を清水寺など仏閣の再興に還元し、今の京都の風景や文化を構築するのに大きく寄与した人物ということができます。