【京都市右京区】昭和男子の京都時空観光案内 源氏物語の世界 冬枯れの奥嵯峨を歩く!
【昭和男子の京都時空観光案内(嵐山・奥嵯峨編前編)】
嵯峨野は今や京都屈指の観光地となっています。2022年12月10日、この地に息づく平安文化の面影を巡りました。
まずは奥嵯峨めぐりの拠点、竹林の中に静かにたたずむ、「野宮神社(ののみやじんじゃ)」へ。野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮に仕える斎宮(未婚の皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ下行する前に 1 年間、身を清めたところです。斎宮は2歳から、最年長者では 28 歳で選ばれたりすることもあったようです。この慣習は 673 年から約660年にわたって続き、その間には 64 名の斎宮が名を残しています。
嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、保存の難しさや、原木のクヌギの入手が困難なことから、日本で唯一黒木鳥居(クヌギの木の皮を剥かないまま使用する日本最古の鳥居の様式)と小柴垣(クロモジの木)に囲まれた聖地でした。天皇の即位式で建てられる「大嘗祭」も黒木鳥居と小柴垣で囲まれます。
ここは光源氏と、その恋に苦しむ六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の別れの場面に登場する舞台です。その様子は源氏物語「賢木(さかき)の巻」に美しく描写されています。「光源氏との結婚を諦めた六条御息所は、娘の斎宮と共に伊勢へ下ることを決意しまう。葵の上と結婚した光源氏でしたが、御息所を哀れに思って秋深まる野の宮を訪れ、別れを惜しむのでした。」
「落柿舎」は、松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘です。芭蕉も3度訪れ「嵯峨日記」を著した場所としても知られています。去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」には以下の記述があります。
「庵の庭には 40 本の柿の木があり、日頃去来は人にこの庵の管理を任せていた。1689 年(元禄 2 年)頃、去来がちょうど在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文を出して買い求めたので、去来は売る約束をして代金を受け取った。しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった。翌朝来た老商人がこの有様に呆然としつつ、代金を返してくれるよう頼み込み、去来はこれを不憫に思って柿の代金を全額返した。この老商人が帰るにあたって去来は友人あての手紙を託し、その中で自ら『落柿舎の去来』と称したという。」
落柿舎の前の道では、東映撮影所などのロケをよく見かけます。。時代劇で忍者が素早くかけていくシーンや京都を題材にした刑事もので船越英一郎さんや内藤剛さん、女優さん方などが風情ある光景を駆け抜けるシーンなどもここが使われます。奥嵯峨の道はまだまだ続きます!