【京都市上京区】北野大茶会は何故一日で打ち切りになったのでしょうか! 千利休切腹との因果はあるの?

 2024年8月2日から御手洗川の足つけ燈明神事などの「北野祭」が始まっている北野天満宮は境内の至る所に見所が満載です。一の鳥居から楼門にかけての参道も歴史ロマンあふれる魅力のスポットです。

北野天満宮

 「太閤井戸」は安土桃山時代に時の為政者豊臣秀吉が天正15年10月1日(グレゴリオ暦で1587年11月1日)にこの場所で開いたとされる「北野大茶会」で茶を点てる水を汲み上げたとされています。かつて松原だった駐車場内には京都市茶業組合によって、「北野大茶湯之跡」の碑も建立されています。京都所司代前田玄以の差配で、北野松原での茶之湯の準備は進められ、京、大坂、堺、大和に高札が立てられたといいます。

北野天満宮

 北野天満宮の拝殿には座敷飾りが設けられ、傍らには広さ三間の黄金の茶室が据えられたといわれます。似茄子、紹鴎茄子、白天目、胡桃口の柄杓立、瓢箪、新田肩衝、鐘の絵、芋頭(水指)、四十石(茶釜)などなど、四十点にも及ぶ、信長以来の「名物狩り」の結果ともなる秀吉所蔵の名物が披露されたのだとか。

北野天満宮

 経堂の四隅には、千宗易利休居士、堺津田宗及、堺納屋(今井)宗久がそれぞれ、思い思いに囲いをなし、台子を飾り、はなやかに数寄を演出しました。この時、秀吉を含む4人の茶頭のうち、やはり千利休が一番人気だったようで、「利休様の人気はなんといっても、鯉が滝を登り龍になるがごとく、勢いがございまする」ともいわれたのだとか。果たしてこれもまた利休切腹の要因の一つだったのでしょうか?

北野天満宮

 つかみ切れない京都衆の心情を探り、取り込みを図る目的で開催されたといわれるこの北野大茶会は10日の予定が急遽1日で切り上げられました。1000人近い参加者だったとされる参加者は、秀吉の眼にはどう映ったのでしょうか? 何万という軍勢を目の当たりにしてきた秀吉にはたったこれだけとなったのか? はたまた、1日で憔悴してしまうほど。大勢の人数ととらえたのか? 今となっては分かりません。

北野天満宮

 イベント打ち切りの要因は、この後、九州征伐に出立する秀吉の前にもたらされた急報が原因だとの説もあります。当日は徳川家康や筑紫の坊主(神谷宗湛)も招かれていたといいます。利休切腹の要因ともいわれる一つに、野望のために九州へ拠点を移そうとしていた秀吉が、堺衆を見限り博多衆への庇護を強めていたのが要因ではないかとの説もあります。(以上参考文献 秀吉の智略北野大茶湯大検証 淡交社)

 さまざまな謎多き歴史ロマンあふれる北野天満宮へぜひ立ち寄ってみてください!

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