【京都市】新選組結成160周年で聖地巡礼 二条城、西本願寺、近藤勇妾宅跡から伊東甲子太郎殉難の地、最後の屯所不動堂村まで!
2023年は新選組結成160周年ということで、京都市内の聖地巡礼に多くの人が訪れているようです。8月13日の早朝に堀川通の二条城から七条近辺まで歩いてみました。
幕末に朝廷と幕府の力関係が逆転していきます。文久3年(1863年)3月、時の孝明天皇の招請に応じて、家茂が上洛するにあたって、本来の将軍の親衛隊である「旗本八万基」が230年に亘る太平の世で、「武芸や学問よりもそろばんが大事」の風潮がはびこり、事務官僚化していたため役に立たず、警護の兵がいない事態となります。この時に白羽の矢が立ったのが、清河八郎の求めに応じた234名といわれる「浪士組」でした。
治安が乱れる京の都へ先発隊として上洛をした浪士組でしたが、清河八郎は浪士組をそっくり尊王攘夷の部隊へすげ替えしようとします。これと袂を分かって結成されたのが芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司らによる「壬生浪士隊」、後の「新選組」でした。後に今でいう上司にあたる会津藩主松平容保は京都守護職として、徳川将軍の宿舎の二条城で政務をとることも多かったと言いますから、新選組局長らも頻繁に登城していたと思われます。
さて前川邸や八木邸など二条城に近い壬生界隈を屯所としていた新選組は、元治元年(1864年)の池田屋事件以降に200人を超える大所帯に膨れ上がり、慶応元年(1865年)3月に屯所を西本願寺境内の北集会所や太鼓楼に移します。さらに、近藤勇らが幕府直参になった慶応3年(1867年)6月に新たに建設された不動堂村屯所に移転しました。現在の堀川通塩小路にあるリーガロイヤルホテル近辺だと言われています。ホテル玄関前には不動堂村屯所跡地の石碑があります。
新選組が不動堂村にいる間に、二条城で大政奉還があり、さらに伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清(油小路事件)がありました。伊東甲子太郎は、藤堂平助の仲介で、新選組の参謀として入隊します。しかし、元々勤皇倒幕思想だった伊藤は、孝明天皇の崩御に際し、藤堂ら14名とともに御陵衛士を結成し新選組から離脱しました。高台寺月真院を屯所としたため「高台寺党」と呼ばれることになります。
しかし、諸説ありますが、伊東は、七条堀川近辺にあったとされる近藤勇の妾宅で近藤や土方から「一説拝聴したい」と接待を受け、帰り道に本光寺前で新選組隊士らによって急襲されます。これは、北辰一刀流の道場主でもあった剣豪の伊東を手にかけようとする近藤らの罠でした。さらに伊東の遺骸を油小路七条に放置し、藤堂平助らが引き取ろうと駆け付けたところを襲い掛かり、藤堂ら3人が斬られ、4人が逃亡し、「高台寺党」は 壊滅しました。これが世にいう「油小路事件」です。
このときに新選組のスパイとして送り込まれていたと言われるのが、幕末一の情報通とされる斎藤一でした。数々の歴史ロマンあふれる堀川通を散策してみませんか!