【京都市北区】洛北のパワースポットも1月14日一面の雪化粧となりました。朱塗りの鳥居や門が一層鮮やかでした!

 2022年1月14日、前日から降り続いた雪で京都市内は一面の銀世界となりました。洛北の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ・上賀茂神社)もまた雪化粧され、朱塗りの鳥居や神門が見事に映えていました。

上賀茂神社
 かつて、加茂社と呼ばれたこの社は、平城京よりも古の昔からこの上賀茂の地にあったと伝わります。祭神は、賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)といいます。現代の社の北北西にある神山に降臨し、天武天皇の頃に社の基礎が造営されたと伝承され、白砂が円錐形に盛り上げられた「立砂」は、賀茂別雷神が降臨したという神山を表していて、 神を招請する憑代(よりしろ)となります。この砂は、実は、鬼門や裏鬼門などに撒く清めの砂の始まりなんだそうです。

上賀茂神社
 さて時代は平安時代へと進みます。諸説ありますが、力を持ちすぎた東大寺を始めとする六宗を嫌い、また朝廷を中心に血みどろの政争に明けくれた結果、怨霊渦巻く平城京を捨て、長岡京への遷都を決行した桓武天皇でしたが、治水の不安や造営長官・藤原種継の暗殺や桓武天皇の弟の早良親王の憤死などを因とし、その都もわずか10年で遷都を余儀なくされます。平安京は秦氏や賀茂氏、八坂造など有力豪族によって現在の地に導かれました。

上賀茂神社
 都は四神相応(玄武、白虎、青竜、朱雀)を基軸に、陰陽道によって形創られました。大将軍神社をはじめ、周囲に結界を張り巡らせたのです。新たな都で延暦寺などとともに、鬼門の守り、皇城鎮護の神とされたのが上賀茂神社でした。 以来、朝廷よりの崇敬が厚く、事あるごとに祈願のため、天皇家の行幸も数限りなく行われました。1994年には世界文化遺産登録されています。賀茂家は以後、陰陽家としての歴史も受け継いでいくこととなります。

上賀茂神社
 春になると参道東側には、ピンクの花が鮮やかなしだれ桜が広がり、また一の鳥居側には真っ白な「斎王桜」を観賞することができます。斎王とは天皇の践祚(代替わり)に際して、皇族の中の未婚の女性から選ばれ、次の代まで神様に巫女として仕える者でした。葵祭で、斎王代が未婚の女性から選ばれ、御所から遣わされ、 両賀茂社にて神事をつかさどるのも、この故事によります。

上賀茂神社
 ところで、御物忌川にある「川尾社」、一般参詣のできない神域になりますが、本殿奥にある「山尾社」、「杉尾社」、「土師尾社」などが大切に奉られています。何故、尾のつく末社が多いのでしょうか。実は、上賀茂神社にある川の源流は貴船から流れいずるといわれます。「貴船神社」は水の守護神、龍の化身として、京の暴れ川を抑えてきました。そしてこのあたりは、その「龍の尾」に位置するということで、白河上皇にも天下三不如意の一つと言わしめた「賀茂川の水」を抑える目的があったのだそうです。

上賀茂神社
 奈良の小川は、現代物、時代物にかかわらず、ドラマなどのロケ地として有名です。秋などは この小川の上に覆いかぶさる紅葉の姿が絶景です。小川は境内を出ると、明神川と名をかえ南側に立ち並ぶ「社家」、上賀茂神社の神官さんたちの邸宅となりますが、各家々へと流れ込みます。各社家では、生活用水や水垢離などに大切に使い、その後、汚れた水は廃棄し、清らかな水だけをまた明神川に戻すという、実にエコなシステムが、平安の昔より続けられてきました。現在は20軒ほどですが、往時は、200軒、1,000人の神官さんと家人らが暮らしていたといいます。現在、西村家別邸が公開されています。

上賀茂神社
 このエコシステムを利用して、社家で、神官さんたちが、門外不出の秘蔵の品として栽培していたのが、「すぐき」であり、京都を代表する漬物となった「すぐき漬」です。すぐきはカブの一種、起源は桃山時代にまで遡ると言われますが、皇族や公家など上流階級しか口にできない貴重な品でした。乳酸菌の発酵によって生まれる酸味がある独特の味わいです。門前のすぐきや六兵衛さんや社家群の北側にある、漬物の「なり田家」さんなどで購入できます。

上賀茂神社
 京都屈指のパワースポットへ是非一度は足をお運びください!

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